【オープンシステムサイエンス】
これまで私たちは、我々は科学の方法論として、対象の領域を決め、問題の本質が明らかになるように抽象化を行い、その基本原理を解明する、というやりかたを取ってきました。この方法はデカルトが17世紀に提唱した科学の方法論である「還元主義(reductionism)」に基づいています。対象とする領域が大きくてすぐに抽象化できない場合にはその領域をいくつかの要素に分割し、それぞれの要素に対して抽象化を行って基本原理を解明するので、「要素還元主義」とも呼ばれます。この方法は18世紀以降の科学の進歩に大きな貢献をし、19世紀以降の技術の発展に寄与し、産業を興し、我々に大きな経済発展をもたらしました。そして、20世紀の最後期になると、多くの問題が解決され、一方で、簡単に解くことができない重要な問題が残りました。そのひとつが生命や健康の問題です。また、脳や心の問題もその一つです。さらには、社会・経済、地球環境やエネルギー、食料などの問題も現れました。そして、インターネットで結ばれた社会インフラの信頼性やディペンダビリティーもそのような問題の一つです。これらの問題は、多くの要素からなる巨大かつ複雑なシステムです。
このような巨大で複雑なシステムの問題解決にどのように立ち向かったらよいか、そして、それにはこれまでの科学の方法論が役に立つのか、と言う疑問を持ち始めたのは今から15年以上も前です。周囲の研究者といろいろと議論して来ましたが、この疑問を解くのは大変難しく、新しい方法論を形にするまでに長い時間がかかりました。そして最近になってようやく「オープンシステムサイエンス」という形で新しい方法論を表現することができました。以下、オープンシステムサイエンスについてお話したいと思います。
オープンシステムサイエンスの対象は上で述べたように巨大で複雑なシステムです。そのような対象はいろいろな要素からなっており、しかもそれらが大変複雑に相互に影響を与えています。そのため、対象を構成要素に分割しようとしてもそれは極めて難しく、また、分割すると重要な性質が失われてしまいます。そして、それらの問題の解決は、それらが生きている、あるいは稼働している中で行わねばならないという特徴があります。生命や脳の問題は生きている人間や生物に対して解けねばなりません。社会・経済や地球環境の問題は一旦リセットして再スタートするわけにはゆきません。インターネットで結ばれた社会インフラについても同様で、サービスを継続しながら問題を解決してゆかねばなりません。
そのように考えると、これからの科学方法論は、これまでの科学の方法論である還元主義に加えて、いくつかの視点が必要であることが分かります。実際、すでにこれまでの科学方法論に対する修正は部分的には行われています。その一つは合成的な視点の付加です。これは基本原理を組み合わせてモノを作ってゆく視点です。還元主義は分析的な視点と言うこともできるので、分析的な視点と合成的な視点の融合を意味します。これらの視点は工学的に必要だから分析し、新しい分析結果を工学的に利用する、といった形ですでに相互に作用を及ぼしあっており、その結果が現在の科学・技術の成果となっています。
しかしながら、上に述べた巨大・複雑な問題を解決するためにはこれだけでは不十分で、さらに新しい視点が必要だ、と言うのがここで述べるオープンシステムサイエンスの方法論です。さらに加えるべき新しい視点は「運営(management)」の視点だと私は考えました。運営とかマネージメントとか言う言葉はこれまで科学や技術とは全く別の分野として考えられてきました。しかしながら、よく考えてみると、生命は命の「運営」です。完全でなくても常に次善の策を求めており、何とか命を続けよう、あるいは、何とか子孫を残そうとしています。そこには時間軸があり、その中運営をしているのです。脳や心の問題も同様だと思います。運営がうまくゆかなくなるといろいろな障害がおこるわけです。社会・経済や地球環境、エネルギー、食料の問題も、止めることなく、持続させてゆく必要がある、という意味で運営の視点が重要です。そして、インターネットで結ばれた巨大社会インフラについても、故障や攻撃に対して対応できる必要があり、また、将来の変更や改良について最初の設計のときから考えておかねばなりません。これはすなわち運営の視点です。すなわち、巨大で複雑な問題を生きたままあるいは稼働したまま解いてゆくには、解析的な視点と合成的な視点に加え、運営的な視点を最初から入れて、これらの3つの視点を融合した形で解いてゆかなければならない、と言うのがオープンシステムサイエンスの方法論です。
これだけ聞いてもキツネにつままれたように感じるかもしれませんが、具体例をソニーコンピュータサイエンス研究所の成果に見ることができます。北野宏明が拓いたシステムバイオロジーは、生命を機能のネットワークの運営としてとらえてその本質を明らかにし、癌や糖尿病、免疫疾患などの治療や創薬に役立てようとするものです。また、桜田一洋の提唱するエピジェネティックスからのシステムバイオロジーは、生命をジェネティカル(遺伝的)に決まる部分にエピジェネティカル(後天的)な運営の視点を加えた形で解明する新しい理論を構築しています。茂木健一郎のシステム脳科学ではクオリアをはじめとする脳や心の問題を偶有性の視点から解こうとしています。ルック・スティールスのセミオティック・ダイナミックス(記号動力学)は、自然言語の発生や進化を時間発展の中でのダイナミックスとして解明しています。そのほか、フランソワ・パシェのリフレクシブ・インタラクション(内省的な対話)による創造性へのアプローチ、暦本純一の全地球的な情報システムとしてのサイバネティックアースの提唱、高安秀樹の統計動力学による経済活動の解析、フランク・ニールセンの計算情報幾何学においても、オープンシステムを対象領域とした新しい分野を構築し、その過程でオープンシステムサイエンスの考え方を取り入れています。
このたび、ソニーコンピュータサイエンス研究所創設20周年を記念してこれらの成果を一冊の本にまとめ、出版しました。このような成果を得ることができたのは一重に皆さまのご理解とご支援の賜物であります。皆様のご厚情に心から感謝し、引き続き皆様のご理解とご支援をお願いいたします。
所 眞理雄、株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所代表取締役社長